オリジナルの脳がどれだけあればそれは当人なのか?

霊長類でもiPS由来神経細胞の脳への自家移植で拒絶反応は見られない -京大マイナビニュース」というデイビー日高さんによる記事を読むと、現在の再生医療技術では神経細胞まで作って脳に移植するなど、いろいろと検証作業を進める段階にまで達しているそうです。

どのくらい先の話かは分かりませんが、いずれ脳の損傷もある程度であれば修復できるようになってくるのでしょう。そうすると、自分の生まれながらの脳は8割だけど、2割は再生医療で後から作り出した脳なんていうことになってきます。その8+2割=10割も寿命な何やらで、また再生医療で作りだし脳で置き換えて、などということを続けていくと、いずれほとんどの脳が生まれながらのものではない状態になることもあるでしょう。さらに言えば、10割すべてが生まれながらの脳ではない、後天的に作られた脳というような状態すら起こりえるんでしょうね。

その時、その人は、その当人なんでしょうかね…?

少しずつ置き換えが進んでいった場合、たぶん、周りから見たら当人であって、その人自身というように認識できるのだろうと思います。でも、生まれながらの脳がなくなったら、その人にとって、それは自分…なんでしょうか? その当人の認識でも、きっと当人なんですよね。でも、過去のその当人から見ると、自分はそこにはいない、かもしれないんですよね。でも、本当にいない、とも言い切れないような…。

その人の記憶やその人らしくあるものは、きっと物体=体というよりは脳に記録された記憶=情報、すなわちコンピューターでいうところのソフトウェアによる部分が大きいんだろうと思っています。であるなら、物理的な脳を修理し続けて、記憶を維持することができるなら、その記憶も、認識も、他人からの観察も、すべてが当人としてあり続けるわけです。

極端な話、脳に限らず、すべてが再生医療によって代替わりしていて、生まれながらの体がゼロだったとしても、それはきっと当人としての認識を持ち、他人からもその当人に見えるのでしょう。

こうやって考えると、魂と呼ばれるものがいったいどこにあるのだろう、体=ハードウェアなのか、心=ソフトウェアなのか。なんだか、思考がぐるぐるしてしまいます。

手塚治虫さんのまんが「火の鳥」で、脳が人間の手で治療できるようになったという設定で進む話があったような気がします。もっとも、その話はこの話とは違う方向の話なのですけどね。とかいうことをちょっと思い出したりもしました。

いずれ、人間は事故などの突発的な状況以外では死なない時代が来るのかもしれませんね。

未来人A:昔の人間はみんな死んでいたらしいよ。
未来人B:えー、信じらんない。今の時代に生まれれてよかったよ。

こんな会話をしていたりして?

今朝、お風呂に浸りながら前述した記事の内容を思い出してこんな妄想をしてしまいました。朝から何考えているんだか…。

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